捕鯨の歴史

勝本の田浦納屋場
納屋場は、大村の深沢義太夫が建設。その後、勝本の鯨組土肥市兵衛が拡張したと言われています。網組による捕獲頭数の増加を受け大規模な組織が必要になったのです。
日本における工場制手工場の始まりとも言っても過言ではないのです。18世紀における記録を調べると
◎鯨船
勢子舟(刃刺の乗る船)24艘、双海舟(網を積んだ舟)12艘、双海付舟(網を張るときに手伝う舟)12艘、持双舟(鯨を運ぶ舟)8艘、納屋舟2艘、合計58艘です。この鯨船に乗って働く人は、羽刺が51人、加子(水夫)672人で、合わせて723人。
◎納屋場
勘定納屋・東大納屋・西大納屋・骨納屋・腸納屋・小納谷・大工納屋・鍛冶納屋・桶屋納屋・船小屋・ロクロの施設がありました。納屋場で働く人は、(別当12人、帳役4人、飯役2人、勘定道具納屋9人、魚切32人、門番14人、鍛冶2人、大工2人、樽屋2人、網納屋2人、茶廻4人、若子50人)、合計135人。
 陸上、海上の労働者856人、臨時雇いを加えると、千人を超える人々が一つの鯨組で働いていたのです。
      田浦納屋場背美鯨解体図 画像編集:Copiloy-Kcp)  元図:壱岐名勝図誌
壱岐における捕鯨の歴史
●突組時代:壱岐島の突組は明応(1492~1501の頃)紀州熊野浦の日高吉弥により開始。
その頃、壱岐の近海は初冬にオホーツク海から日本海を通り南下、早春になると北上する鯨で一杯だった。
突組で活躍した鯨組
 元和の頃(1615~23)、播州の横山組
 寛永の頃(1624~1644)、大村の深沢組と唐津の明石・吉村・山川組
 慶安の頃(1648~1651)、平戸の網屋組
 寛文2(1622)年、8人共同経営(平戸5、大村1、明石1、瀬戸1)根拠地戎浦
 寛文4(1624)年、島の人による突組開始
 明暦2(1657)年、平戸の突組が勝本で鯨3本突き取る
 延宝2(1674)年、17の突組が壱岐沿岸の浦々に基地を置き活動(印通寺、初瀬、棚江、長者原、八幡、芦辺、大石、妙見、恵比寿、浪無、瀬戸、勝本、湯ノ浦、渡良など)

網組で活躍した鯨組
 慶長11(1606)年、紀州の大地で和田覚右衛門が「網取り捕鯨」を考案
 貞享元(1684)年、大村の深沢義太夫(2代目)が、大地浦へ行き網組の漁法を学び、勝本浦で網組捕鯨を開始、田浦と戎浦に納屋場建設
 元禄年間(1688~1703)、大村の深沢組、小値賀の小田組、勝本の土肥組の活躍が目立つ。
 正徳年間(1711~1715)、勝本土肥、芦辺篠崎、瀬戸布屋組等5名共同で鯨組を経営
 享保年間(1716~1736)、平戸山口・生月益富・江戸油屋・芦辺篠崎・瀬戸布屋・郷ノ浦許斐らが入り壱岐捕鯨の最盛期だった。
 元文元(1736)年の頃、共同の鯨組で財を成した土肥鯨組が独立。鯨組を出すには、銀400貫(5000両)を必要とした。
 享保17・18(1732・33)年、西日本一帯は蝗害(バッタ類)害による大凶作。害虫駆除に鯨油が有効で需要が増加。
 安永年間(1772~80)、初代原田七之助が鯨組を作る。
 天明元(1781)年、勝本の原田七之助(永取)鯨組を興す
 文化年間(1804~18)、勝本の原田元右衛門、瀬戸の布屋(倉光)が共同で組を興し、下関の辰巳が壱岐に進出。
 文政年間(1818~29)、平戸の網屋組が行きに進出
 天保年間(1830~43)、対馬の亀谷組が壱岐に進出。壱岐の鯨組も各地の海に出かけて鯨捕り
  土肥組は、対馬の廻浦といな浦、平戸の小値賀浦と津吉浦、唐津領の小川島へ進出
  土肥鯨組事業不振のため解散
 天保11(1840)年:二代原田元右衛門藩から捕鯨業を公認された
  篠崎組は、大村領の柿之浦へ進出
  佐野屋組は、柿之浦と五島領の宇久島へ進出
  布屋組は、唐津領の小川島と大村領の柿之良へ進出
  原田組は、大村領の柿之浦と黒田藩の姫島へ進出
  小田組は、対馬領へ進出
 壱岐の捕鯨は、嘉永年間の始め(1850)頃までは、鯨も多く隆盛を極めた。が、日本海の鯨の減少で徐々に衰退。
 弘化2(1845)年の捕獲頭数138頭、安政3(1856)年14頭。慶応3(1867)年に捕鯨を興した印通寺の虎屋組は5頭。
 元治元(1864)年、献金の功により藩主より「永取」の姓を賜る
 明治元(1868)年:永取鯨組解散
 明治2(1869)年:原田鯨組解散
 約400年の長期に渡って繫栄した壱岐の捕鯨は、明治37(1904)年の今西音四郎組をもって、すべて終了した。