朝鮮使節

朝鮮使節について:1597(慶長7)年、豊臣秀吉の死後、豊臣政権を存続させようとする石田三成と徳川家康の対立が表面化し、1600(慶長5)年、関ヶ原で激突した。天下分け目といわれる戦いに勝利した家康は、1603(慶長8)年、征夷大将軍の宣下を受け江戸に幕府を開いた。 1609(慶長14)年、徳川家康は朝鮮との講和を実現し、対馬藩主宗氏は朝鮮とのあいだに使者の資格などを定めた己酉(きゆう)条約を結んだ。条約は近世日本と朝鮮との関係の基本となり、釜山に倭館が設置され、宗氏は朝鮮外交上の特権的な地位を認められた。朝鮮からは第1回目(1607年)から第12回目(1811年)におよぶ使節が来日、4回目からは通信使と呼ばれた。来日の名目は新将軍就任の慶賀が過半をこえた。(経路) 釜山→対馬→壱岐(勝本浦)→藍島→赤間の関→大阪→京都…東海道…江戸  案内は対馬藩が行い、江戸往復の道中は沿道の諸大名が接待と送迎。壱岐勝本浦における応接は平戸松浦藩が執り行った。通信使一行は、朝鮮人が平均450人(水夫100人)と案内のため800人の対馬人が同行した。東海道では各藩で2500人ほどが動員され、馬は800余頭も使われたと言われています。勝本浦には往路含めて19回入港

設備イメージ

朝鮮使節迎接所の図(槎路勝区図):路程(槎路)の勝区(景勝地)、勝本浦正村町にあった神皇寺裏山一帯を掘り崩し、埋め立て地を造成して建てられた迎接所。船着き場から50m、横の長さ180mほどで、現在の正村町から川尻町に至る。通信使の画家がスケッチしたもので、「心の交流、朝鮮通信使」本の中に掲載。
「海遊録」にみる勝本浦の様子
 1719(享保4)年の通信使一行の記録の中に、勝本浦の様子が書かれている。「7月19日の明け方、一行は対馬の府中(厳原)を出発し勝本に向かいましたが、海上は大時化でした。勝本浦では百余の出迎えの船が一行を迎えました。通信使一行の船は、浦口に入り全船が集結したのち上陸を始めました。7月20日午の刻(正午)を過ぎた頃でした。正村湾の浦口は水が浅いため船を連ねて陸橋を作り、その上に板を強いて左右を竹欄(竹の手すり)として、重純席(太く束ねた糸で編んだ敷物)を敷いて、まっすぐ使館までいたる。その鮮浄(あざやか)なること見るにたるもの。岸を挟んで見物する男女は、山一面に簇立(立ちむらがり)し、紅衫(赤のうすもの)を着たものが過半で、青や白の班斕衣(あや文様の衣服)も混じっている。まさに、春林に茂る百花が媚顔を競っているように華やかな光景だ。風本浦は、一名勝本という。壱岐島の西(北)の一隅にあり、土地をいうばあい壱岐といい、浦をいうばあい風本という。壱岐は松浦肥前守に属し、土地肥沃にして且つ大、穀物が諸地方のなかでその最もなるものである。

朝鮮使節迎接所跡(現在の姿)

左の写真は、朝鮮使節迎接所がおかれたところ。中央の図を見ると、右の方に神皇寺、宮司宅があり、迎接所の左奥に押役所があることがわかる。迎接所は、裏山一帯(150mほど)を掘り崩して埋め立て地を造成し建てられた。その後、道路を挟み山側と海側に住宅が立ち並び、海側の家には竹を敷いた船着き場が置かれた。海岸道路は、昭和の経済成長期に造られた。右の写真は、神皇寺廃寺後に造られた阿弥陀堂(赤屋根)。阿弥陀堂前から海に向かう通路の先が、朝鮮使節が上陸した渡頭(渡し場のほとり)で、海から上がる石段があった。いまでもこの場所は「渡頭」と呼ぶ。

対馬屋敷、対馬屋敷の塀、押役所