1592(文禄元)年3月12日、小西行長を筆頭に一番隊18700人が、勝本浦で船揃いを完了し対馬へ向け出発した。壱岐の武士や水夫たちは松浦軍に所属。また、兵站基地の軍夫として、壱岐では15歳以上、60歳以下の男はすべて招集。
南北朝の動乱を経て、1378(永和4)年、足利義満が内乱に終止符、その後戦国大名による分国支配、全国統一の野望を実行に移した織田信長、そのあとを継いで豊臣秀吉が1585(天正13)年、関白に任じられ全国統一を完成した。また、1588(天正16)年、九州を平定した豊臣秀吉による九州諸大名の国割が行われ、壱岐は松浦氏の領土と認められた。そして、1591(天正19)年8月、豊臣秀吉は外征への最終的な決意を発表。本陣を肥前名護屋とし、出城を松浦鎮信に命じ壱岐風本(武末城)に築かせた。築城には、松浦鎮信が主としてあたり、肥前国の有馬晴信(日野江城主)、大村喜前(大村城主)、五島純玄(五島城主)が支援し、およそ4か月の突貫工事で完成した。また、出陣する将校の宿舎(聖母宮前の屋敷)も同時に築造した。ここには大名たちの旗が立ち並び、後に旗揃舎(はたぞろいしゃ)と呼ばれた。
武末城(写真左奥の頂上)には、1592年から戦い終了の1598年までの7年間、秀吉の弟である秀長の家臣、本田因幡守正武が城番として在住。500人の家来とともに駐屯し、食糧・軍馬・武器などの海上輸送を仕切る兵站基地の責任者として、また壱岐全島の治安を守る民生官として活躍した。1592年(文禄元)年、15万人余りの大軍を朝鮮に派兵した文禄の役。そして、1597(慶長2)年、秀吉は再び14万余りの兵を送ったが(慶長の役)、日本軍は最初から苦戦を強いられ、翌年秀吉が病死すると撤兵した。前後7年に及ぶ日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮の人々を戦火に巻き込み、多くの被害を与えた。また、国内的には、膨大な戦費と兵力を無駄に費やす結果となり、豊臣政権を衰退させる原因となった。
武末城は、風本城・勝本城などと呼ばれた。
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武末城の本丸図
1591(天正1591)年、豊臣秀吉は松浦藩主に命じて、壱岐風元(勝本町)に城を築かせた。築城には、平戸藩が主として当たり、肥前国の日野江、大村、五島城主の三氏が支援。およそ四か月の突貫工事で完成されました。
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大手門の石垣
城の跡は、楕円形をして長径約147m、短径約69m。現在は写真にあるように、北に開口する虎口の枡形と、その左右の石垣がよく残っています。石垣は、本丸をほぼ完ぺきに鉢巻状に取り巻いていたと思われ、現在も各所に巨石が残っている。
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武末城内の稲荷社
文禄の役が始まるとともに、壱岐の各地で戦勝祈願が行われた。そして1592(天正20)年、城内に稲荷社が祀られた。また、島内の神社・仏閣においては戦勝の祈祷勤行は天正20年から慶長3年の7年間、戦役終了まで続けられた。
大名宿舎、大名の旗が立ち並んだことから後に旗揃舎(はたぞろいしゃ)と呼ばれた。
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大名宿舎(正村町)
聖母宮の正門前の屋敷は、天正21年(1591年)豊臣秀吉の命を受けた国主肥前平戸藩主松浦鎮信が勝本城とともに築いた大名の宿舎である。朝鮮出兵した加藤清正や鍋島直茂などが滞在、住民はこの宿舎に将校の旗が立ち並んでいたことから、後にここを旗揃舎と呼んだ。
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大名宿舎の物見台
宿舎裏の高台に造られた物見台。戦陣で、敵情を探ったり見張りをするために使われるが、ここは軍を出発させるために重要な海面の状況や、湾内に浮かぶ軍船や兵員の状況を見渡したと思われる。北西に対馬海峡、東に湾内を望むことができた。
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大名宿舎の稲荷社
農業神・工業神・商業慎・屋敷神など万能神となった稲荷神は、1592(天正20)年武末城に稲荷社が祀られたのに次いで、大名宿舎にも祀られた。宿舎は1627(寛永4)年朝鮮通信使寄港の重要性に鑑み、壱岐島惣大宮司兼神職棟梁吉野氏の居とされ現在に至っている。