(1)鎌倉時代:12世紀後半の保元・平治の乱、源平合戦をへて、1185年武家政権としての鎌倉幕府が確立。1192(建久3)年、源頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命され、鎌倉で実際的な武家政治の拠点を築いた。これを鎌倉幕府とよび、鎌倉に幕府がおかれた約140年を鎌倉時代という。
(2)室町時代:鎌倉時代の終わりの1336(建武3)年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立てたが、後醍醐天皇は吉野(奈良県)にのがれ、二つの朝廷が並び立つ状態(南北朝の動乱)が生まれた。動乱は尊氏の孫足利義満が3代将軍になる頃におさまり、義満は1378(永和4)年、京都の室町に壮麗な邸宅をつくり、政治を行ったので、この幕府を室町幕府と呼ぶようになった。
仏教・・・奈良時代(710年~784年)に、鎮護国家の思想の下に国家の保護(国分寺建立や大仏造立)を受けて発展。また、仏と神は本来同一であるとする神仏習合思想がおこった。平安時代(784年~1185年)は、新たに伝えられた天台宗・真言宗が広まり密教(祈祷によって幸いを避け、幸福を追求する)が盛んになった。鎌倉時代は、それまでの祈祷や学問中心のものから、内面的な深まりを持ちつつ、庶民など広い階層を対象とする新しいものへの変化が始まった。浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗。室町時代:天台・真言などの旧い仏教は次第に勢力が衰えた。これに対し鎌倉仏教の各会派(禅宗諸派)、浄土真宗は都市や農村に広まっていった。
蒙古襲来・・・鎌倉幕府(北条時宗)が朝貢を拒否したことから、元は高麗の軍勢もあわせた約3万の兵で、1274(文永11)年、対馬・壱岐を攻め九州北部に上陸。日本軍は苦戦したが、元軍も損害大きく、内部対立などもあり退いた。その後、1281(弘安4)年、元は約14万の大軍を持って九州北部に迫った。しかし、博多湾岸への上陸が阻まれている間に暴風雨がおこり、大損害を受け再び退散した。*勝本浦は、暴風雨で大損害を受けた元軍の船、軍人、武器等が、浜に流れ着いたことから引き上げ葬ったなどの言い伝えがある。
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能満寺(黒瀬町)
山の中腹に位置する能満寺。昔は三光寺だった。江戸時代、勝本浦の寺院は、三光寺(曹洞宗)・神皇寺(真言宗)・能満寺(真言宗)の3つと、庵を思わせる妙峰山地命寺があった。明治初年の一村一寺の折に、三光寺、神皇寺、地命寺は廃寺となり、三光寺跡地に能満寺が移り、山号を勝本山と改め、勝本山能満寺と称して今日に至る。
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対馬、宗家の位牌
昔、対馬屋敷に滞留した藩主と尼と親交があった。藩主の死を聞いた尼は焼香を願い出た。世継ぎの藩主はこれを許し白銀を与えたが、尼は寺を建て位牌を祀った。尼寺が絶え、位牌は能満寺に引き継がれた。また、能満寺には、聖母山神皇寺に伝わったとされる明国の夜巡牌(周辺鎮撫のためのた通行手形)がある。
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能満寺山門
これには正徳2年(1712年)、勝本浦の土肥市兵衛を筆頭に鯨組関係者の名が記されている。土肥家は、三井や鴻池と並ぶ天下の三大富豪と称された捕鯨業者である。。山門を潜ると、左側に使われていない梵鐘がある。鐘銘に「壹州勝本浦三光寺 鐘銘 並 序」とあり、明治に廃寺となった曹洞宗三光寺のものだったことが分かる。
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神皇寺(正村町)
1522(大永2)年、妙覚と名乗る者が鹿ノ下井川に居住。そのご庵室を西住院、竜宮寺と改め聖母宮近くに移す。妙覚子孫断絶後、神岳山秀増が庵主となり真言宗と定めた。そして1628(寛永5)年、源覚という住僧が神皇寺と改めた。明治元年、神仏分離令により神皇寺は廃寺となった。寺地は、赤屋根を中心に縦31m、横25.5mほど。
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弥勒堂(新町)
この堂は、明治の廃仏穀釈で廃寺となった神皇寺の弥勒菩薩像を引き取り安置したお堂。弥勒菩薩像は、九州観世音寺系統の仏師による桧材の寄木造りで、室町時代初期のもの。その横に13世紀のチベット産の浮き彫り仏頭がある。その他、弥勒堂には嘉永元年(1848)の銅像鉦皷と木造弘法大使像(石井庄助彫刻)がある。
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地命寺(湯田町)
仏閣名は、妙峰山地命寺と呼ばれ、宗派は真言宗で本尊は神岳山末社。3世大僧都暹栄(せんえい)が、寺僧としていたが、信徒は僅かで講中特信の者が古寺をあずかり朝夕礼拝を続け大祭を営んでいた。1717(享保2)年に恵兆という住職が居て、生徒50人位に習字、読み書きを教えた。場所は、印鑰神社の坂上、寺地は縦18m、横13mほど。