史跡について

俳人河合曽良の墓と長四郎さんの塚

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河合曽良は、1649(慶安2)年、信州上諏訪で生まれ、1683(天和3)年、35歳のとき江戸深川六間堀にいた松尾芭蕉の門下に入り、芭蕉の旅に随行するようになった。下は、詠まれた句です。
39歳:鹿児島紀行の句、「雨にねて 竹おきかえる 月見かな」
41歳:奥の細道紀行の句、「剃り捨て 黒髪山に 衣替え」
62歳:江戸幕府巡検使の一員となったときの句               「春にわれ 乞食やめても 筑紫かな」
大阪から海路をとり、筑前国若松に上陸。その後、福岡城下・呼子を経て、5月7日壱岐郷ノ浦に上陸した。ところが曽良は病気にかかり巡検使の一行から離れ、勝本浦の海産物問屋「中藤家」で静養していたが5月22日に生涯を終えた。曽良の墓は勝本浦「能満寺」近くの中藤家の墓地にある。(壱岐市勝本支所の駐車場から道路を隔てたところに案内板が立っている。そこから約80mほど)
療養中の句、「行き行きて 倒れ伏すとも 萩野原」           句の中に、その時々の心象をが想われる。

天保時代(1831年~1845年)、湯田町を平戸藩城代家老の行列が通っていた。人々は道端に土下座し行列の通り過ぎるのを待っていたが、地命寺坂から釣竿を手にした七歳の童子(長四郎)が、行列の来るのもわからず先頭を横切った。
先頭を進む年輩の侍は、見て見ぬふりをした。しかし、若い侍どもは許さず刀を抜いて泣きながら逃げる童子を「沖の瀬」まで追いかけ首を切ってしまった。人々は可愛そうに思い、「沖の瀬」に供養塔を作り、毎年子供相撲等を催し霊を慰めてきた。
ところが、奇妙な出来事が起きた。勝本に外部から入港する船が、係船のため塔に綱を掛けると事故が発生した。地元の人は塔の悲話を説明した。そして、船の人が綱をといて手厚く供養すると出港が出来たと言う。また、長四郎さんの霊は、海に落ちた子供は必ず救い、この付近では子供が溺れ死んだことはないと言う。塚は勝本浦に入り海岸通りを右に80mほど進んだ農協ATMのすぐ先(湯田町)にある。

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