勝本町の縄文・弥生遺跡と古墳について
勝本町勝本浦(養老令による壱岐国壱岐郡加須郷加須浦)は外部との通交の窓口。さらに内部へと入ると、縄文・弥生時代の高地性のカラカミ遺跡と大規模な古墳群がある。壱岐は古墳が多く、「壱岐国続風土記」によると全島で338基。勝本町には、昔の加須村(西戸・東・中・大久保・坂本触)23基、新城村(東・西・北・片山触)19基、本宮村(東・南・西・中触)8基、布気村(本村・上場・百合畑触)36基、立石村(仲・東・南・西触)25基の計111基があり、全島の古墳の3分の1が集中する。古代の壱岐の中心は、勝本町の在部であったことを示している。浦部は窓口とし、本部は外敵の侵入に備えるため内陸とする。朝鮮半島と密接な関係にあったヤマト政権の戦略とされた。
特に亀石(勝本・郷ノ浦線と湯ノ本・芦辺線が交差する地)の周辺には、縄文・弥生時代の高地性のカラカミ遺跡、長崎県最大規模の前方後円墳の「双六古墳」、墳丘の大きさで長崎県最大の「笹塚古墳」、県内でここだけしかないという家形石棺をもつ「掛木古墳」、群集墳と呼ばれる小古墳の「百合畑古墳」と古墳の変化を実感できる。
カラカミ遺跡:勝本町立石東触の香良加美神社を中心に広がっている。海岸から1.5㎞の距離で、標高30から90mの山頂や傾斜面にある丘陵性の遺構。弥生遺跡とされているが、出土品などから漁撈や狩猟が盛んだった縄文時代から続く海人族の集落といえる。注目すべきは、この頃から朝鮮半島と交流があっていたこと、鉄器の多さが証明している。ここからさらに内部へ入ると、古墳時代の遺跡が広がる驚くほどの光景がある。
双六古墳:勝本町立石東触字壮六にある前方後円墳で、長崎県では最大の規模の古墳。墳丘は全長91m、前方部の高さは約4m、後円部の高さは約10m、石室は全長11mで羨道、前室、玄室の横穴式。前室の長さが約6mと長いのが特長。玄室は縦3.3m、横2.7m、高さ3m、厳選された石材によって見事に構築されている。前室の右側壁には、船の線刻壁画があるが、現在は内部に入ることができない。
笹塚古墳:勝本町百合畑触にあり、墳丘の大きさでは長崎県内では最大級の古墳。特筆すべきは円墳の下部に直径66m、高さ3mの台座があること、内部に神代文字があったこと。墳丘は直径38m、石室は全長15m、玄室には4枚の板石からなる組合式石棺がある。ヤマト政権とつながる豪族の墓といわれる。ここは内部に入ることができるので、懐中電灯を持っていくとよい。
掛木古墳:勝本町布気触にあり、長崎県ではここだけしかないという家形石棺を持つ持つ古墳。現在の墳丘は直径22.5mだが、もとは30mの大型古墳であった。石室は全長13.6m、玄室に地元産の凝灰岩を利用したくりぬき式の家形石棺がある。木棺の鉄釘が出ていることから追葬がされていたこと。また、畿内式の土師器が出ていることから、中央政権との強い結びつきが感じられる。