防人(さきもり):天ヶ原奥串山半島の見目浦
防人とは、国防の前線に立つ駐屯兵のこと。防人には東国の農民が当てられ3年の任期で壱岐や対馬の守りについたのです。選ばれた防人たちは、国司に連れられ難波津(大阪)に集合し、船に乗り九州の太宰府へ来たのです。そこで訓練を受け、筑紫・壱岐・対馬へと配備されたのですが、壱岐には150人ぐらいで見目には10人ほどといわれています。海岸の見張りをし、もし敵が攻めてきたらすぐに烽で知らせる用意をしたのです。 見目浦からは、貝殻捨て場、住居跡、石組みの炉跡やかまど、土師器、須恵器、砥石、骨製品、亀の甲羅を利用した亀卜が発見されており、6から7世紀の生産遺跡とされています。
防人の歌(万葉集) 「唐衣、すそに取りつき泣く子らを おきてぞ来ぬや 母なしにして」(母に死に分かれた子らを おいてきてしまった) 「忘らむと 野行き山行きわれ来れど わが父母はわすれせぬかも」(旅の月日をかさねても 父母のことが忘れられない) 「わが妻も 絵にかきとらむ暇もが 旅行く我は見つつしのはむ」(妻を絵にかきうつす暇あれば 妻をしのぶことができた)
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見目浦に建つ民家
天下原からイルカ池に向かうと、不思議な感じがする民家がある。国防の前線に立った防人は、この辺りに住んだと思われる。海岸の見張りなど警備の仕事のほか、空き地が割り当てられ、耕して自分たちの食料をつくったそうです。
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民家周辺
防人は、東国の農民があてられ3年間の任期で辺境の守りにつきました。兵士は十人単位で構成され、休みは十日に一回。3年の任期終了を楽しみにしましたが、帰国をあきらめ壱岐で結婚し住みついた者もかなりいたということです。
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浦の入り口の船着き場
自給自足が原則の防人は、磯場で貝を掘ったり、サザエやアワビ、ウニなどを獲ったに違いありません。そして、天気のときは船に乗って魚釣りをしたかもしれません。
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浦の入り口に築かれた波止
写真はイルカ池の先にある波止です。万葉集にある防人の歌、「忘らむと野行き山行きわれ来れどわが父母は忘れせぬかも」です。この波止から船に乗り浦を出て南東に進むと博多港に着くのです。
烽(とぶひ):塩谷町の山側
烽は火をあげて急を知らせる施設だった。従って、遠見のきくことが最優先だったので設けられる場所に制限が加わってくる。そこには「外敵が攻めてきた」というような、大事な要件を早く知らせるために、火をたいて煙を上げる設備があった。しかし、煙だけではどんな事件かわからない。そこで約束が決められたのです。たとえば、外国使節が来航した場合は、一つの烽火、賊が来たと分かった分かったときは二つの烽火、200隻以上の敵が押し寄せてきた場合は三つを放つというように。夜は、大きなタイマツを燃やし、詳しい内容はそれから船に乗って報告に行ったそうです。
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烽山(塩谷町の山側
勝本浦に入り、右へ進むと天が原に着く。その途中にあるコンビニ店ポプラをすぎると、前方に崖崩れ工事中の山がある。その右の高い山が烽山で664年、烽(とぶひ)が壱岐にはじめて設けられた場所といわれている。
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檜山頂上からの眺め
左の写真の手前の道路をあがりつめる10mほど前に、山の上に上がる道があり、十数分ほどで頂上に到着する。当時は、木々は切り払われたと思うが、木々の間から対馬海峡を望むことができる。天気の良い日は、対馬の島かげがみえる。
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いまは金毘羅神社
山上は敵侵入の情報をを知らせるため、火をたく設備がおかれた。が、いまは金毘羅さんが祀られている。烽山周辺の漁業者(勝本町東触、勝本浦の塩谷町の者達)が、海上の守り神として信仰された金毘羅宮を奉祀した。
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手水所
祭典は、11月16日に執り行われている。