漢書:1世紀に作られ、前漢の歴史を述べた「漢書」地理志には、「倭人」の社会は百余国に分かれ、楽浪郡(平嬢を中心とした地域)に定期的に使者を送っていたとある。 後漢書:「後漢書」東夷伝には、紀元57年に倭の奴国(福岡市周辺)の王の使者が、後漢の都洛陽に赴いて光武帝から印綬を受け107年には、倭の国王が後漢の安帝に生口(捕虜)160人を献じたと記されている。 魏志倭人伝:3世紀後半に作られた。倭国では2世紀の終わりごろ大きな騒乱が起こり、なかなか収まらなかった。そこで諸国は共同して邪馬台国の卑弥呼を立てたところ、戦乱は収まり邪馬台国を中心とする29国ばかりの小国の連合が生まれたとある。
(2)魏志倭人伝の壱岐に関する記述
倭国への道。帯方郡(朝鮮半島の中西部)より倭に行くには、海岸に沿って航行し・・中略・・倭の北岸の狗邪韓国(朝鮮南部の金海地方)に到着する。狗邪韓国から、初めて海を渡り、千里あまり進むと、対馬国に着く。この国の大官は卑狗といい、副官を卑奴母離という。・・・中略・・・それから、南に千余里渡る。その海を瀚海(対馬海峡)という。そして一大国(壱岐国)に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離という。広さ三百里ばかり、竹木・叢林(やぶ林)多く、三千ばかりの家あり、やや田地あり。田を耕すもなお食するに足らず、また南北に市糴す。「南北市糴」の北は勝本港、南は印通寺港である。
(3)古墳時代:大王を中心とした倭国(ヤマト政権)。倭国は朝鮮半島南部の鉄資源を確保するため、伽耶諸国と密接な関係を持っていた。4世紀後半に高句麗が南下策を進めると、百済や伽耶とともに高句麗と戦った。高句麗王の碑文に「倭が391年よりこのかた、海を渡りて百済を破り新羅を□□し、以て臣民となす」とある。宋書倭国伝には、倭王武の上表分がある。「興死して弟武立つ。自らは、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の7国の諸軍事安東大将軍倭国王と称す」。5世紀初めから1世紀の間、讃・珍・済・興・武と記された倭の五王が中国南朝に朝貢。
(4)遣新羅使船: 大和政権は任那に日本府を置き、三韓との親交盛んなころ通交は殷賑を極めた。遣新羅使船は571年から882年までに45回、約7年に1回の割合で渡航。新羅使船は540年から929年まで89回、約4年に1回渡航。勝本浦には海の神の厳島神社、津(港)の神として聖母宮があり、通交のときの寄泊港とされた。
(5)飛鳥時代:白村江(はくそんこう)の戦。朝鮮半島では、唐と新羅が結んで660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。倭(日本)は唐・新羅に抵抗する百済を支援するため大軍を派遣したが、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗。その後の守りを固めるため、664には対馬・壱岐・筑紫に防人と烽(とぶひ)置かれた。(6)701(大宝元)年に大宝律令が完成し、律令制度による政治の仕組みが整い、「日本」が国号として正式に用いられるようになった。全国が畿内・七道(西海道・山陰道・山陽道・南海道・北陸道・東山道・東海道)に行政区分され、国・郡・里(後に郷となる)がおかれ国司・郡司・里長が任じられた。壱岐は七街道の一つ西街道に属した国で、壱岐郡と石田郡がおかれた。壱岐郡は、風本、可須、那賀、田河、鯨伏、潮齒、伊宅、可須(駅家)の7郷と1駅。石田郡は、石田、物部、優通(駅家)、箟原、沼津で4郷と1駅。現在の勝本町は可須郷、勝本浦は可須浦といった。
(7)平安時代、794(延暦13)年、都が平安京に移って以後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くまでの400年をいう。8世紀末には新羅からの使節の来日はなくなるが、9世紀前半は新羅の商人、9世紀後半は唐・宋の商人が貿易のため頻繁に来航した。また、10世紀初めに朝鮮半島では高麗がおこり、新羅を滅ぼして半島を統一。高麗との間には、商人などの往来があった。(8)835(承和2)年、壱岐に異属襲来、また新羅商人が頻繁に現れることを理由に、2関と14か所の要害の崎に防人が配置された。勝本浦では見目(イルカ池のあるところ)で、串山半島の標高72mの高地と考えられる。(9)838(貞和5)年、壱岐に鉄砲式に矢を発射する武器100脚と操作する人の配置。870年、壱岐へ武具を送り外敵の警戒を厳重にする。871年、武具や兵器の格納庫新設。ここは勝本浦の本浦城といわれる。近くに印鑰神社があることが理由。894年、新羅の賊が壱岐を襲う。1019年、賊船50余隻(刀伊の来襲)が湯の本湾から上陸し壱岐を襲う。北部九州では新羅人、南蛮人、正体不明の賊などの侵入事件が頻発し混乱が続いた。