聖母宮は、仲哀天皇(192~200年)の后である神功皇后(201~269年)が三韓への行き帰りに立ち寄られたという勝本浦にある。神功皇后は、往くときに順風を待たれたこの地を風本と名付けられ、帰るときに異属襲来の断絶を願い行宮を建てられた。その後、里人が社檀を設け平安異国降伏の守護神としてお祀りしたと言い伝えられている。養老元年(717年8月)異属襲来のとき大風にわかに起こり異船全滅。元正天皇が霊験ありしに勅使を使わして神殿造立。ここを聖母宮建立年としている。由緒は、神功皇后が建立されたという霊地。社名は、神亀元年(724年)、聖武天皇の勅により神殿再興のときに祀りを務めた卜部高巣により、香椎宮と称しまた聖母大明神と称すとされたが、現在は聖母(神功皇后)を祀る宮、聖母宮と称している。福岡県にある香椎宮は、仲哀天皇(神功皇后の夫)と神功皇后をお祀りしている。ここから勝本浦を経て朝鮮半島に向かわれた。
養老4年(720年)勅使が遣わされ異賊退散の祈願。養老5年(721年)、勅下り神殿再興。神亀元年(724年)、聖武天皇の勅により神殿再興。天平宝字5年(761年)、淳仁天皇の勅により再興。延暦6年(787年)、異賊襲来の時に桓武天皇より勅使が遣わされ国家安泰、敵国降伏を祈願され神殿再興。
また、大永6年(1526年)波多壱岐守源朝臣盛公、元和6年(1620年)松浦肥前守源朝臣鎮信公、豊後守信実公、明暦4年(1658年)松浦肥前守源朝臣鎮信公により造営。現在の神殿は宝暦2年(1752年)、松浦肥前守朝臣誠信公により造立された。
聖母宮の神殿の横に、天満神社、八坂神社、疫神社を祀った小さな社がある。八坂神社は祇園信仰が全国に広がるなか、神仏習合して祇園社として御霊祭りが行われるようになったが、明治の神仏分離令で、スサノオを祭る八坂神社とされた。祇園祭は、いまも旧6月15日に行われている。
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神殿
流造三間社、柿茸で造営、桁行三間、梁間二間の身舎(もや、中心部分)は、三連の正方形を並べた平面計画。室内に柱が立ち、この柱筋に板唐戸三扉を設けて内陣を画す。外陣は板張りの床に竿縁天井とし、全面に建具を入れず解放とす。
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正門
西からの外敵の襲来を防ぐため西向き。門標には、肥後城主加藤清正の家紋「蛇の目」が刻された。が、明和5年(1768年)鯨組の大富豪、土肥市兵衛が改築に当たり、土肥家の家紋「蔦」に改め現在に至っている。
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南門
門標には、肥前城主鍋島直茂の家紋である「抱き茗荷」が刻されている。この門は、屋根以外は寄進された当時のもの。境内はそれほど広くないが九州の将校から2つの門が築造寄進された宮は他にない。
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馬蹄石(正門から20mほど先)
勝本港は、新羅遠征の神宮皇后一行が出発された地でもあり、また凱旋された地でもあったといわれている。馬蹄石は、皇后の乗った馬のひづめのあとがついた石といわれ、大切にされてきた。
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茶壷
飴柚三耳茶壷。「進入、日本いきしま、風本宮、聖母大菩薩、ご進物ちゃいれ、是を心さす 喜斉、百二良内村ノ生、宗鶴沙門(花押)、天正廿年敬白」の刻銘を持つ。「たたき成型」の壷。壱岐市博物館の開館にあたり貸し出し中。聖母宮で見たいものです。
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手水所(ちょうずどころ)
大シャコ貝。参拝前に、手や口を清めるところ。昭和14年5月26日、勝本町出身(東京在住)の立石孝信氏から寄進された南洋パラオ島産のシャコガイである。貝は2枚貝のうちの一つで、もう一つは南洋ポナペ大神宮の手水所とされている。
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獅子・狛犬
1809(文化6)年、壱岐で最初に奉献された狛犬。拝殿に向かって右側の獅子像が「阿形(あぎょう)」で口を開き、左側の狛犬像は口を閉じている。渡来の信仰に基づくものであるが、阿(あ)・吽(うん)の形は日本の特徴である。
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奉納額
1738(元文3)年に寄進された額。晋献御寶前として次のような文が書かれている。「天下和順 日月清明 風雨以晴 災厲不起 国豊民安 兵才無用 徳崇興仁 務修禮譲」。国家の平和を祈願し奉納されたものであることが分かる。