勝本浦について:壱岐の島は、中国の史書「魏志倭人伝」に「一支国」と記され、壱岐の項に南北の市糴(市)として勝本港と印通寺港がある。勝本港は、入り江の右奥の田浦、左奥の可須浦(正村)、中央の本浦と三部に分かれていた。そして、可須浦の鎮守として聖母宮、本浦の鎮守として印鑰神社があった。勝本町の名称は、可須浦と本浦→可須本浦→勝本町になったと言われている。
勝本浦は、大和政権時代から近世(江戸時代)に至るまで朝鮮半島との通交の要津(港)で、津の神として聖母宮、兵庫の守りとして印鑰神社、海の守りとして厳島神社が祀られた。鉄資源確保で加耶諸国との通商、遣新羅使船の寄泊、戦いでは4世紀後半に百済や加耶とともに高句麗と交戦、663年白村江の戦いで敗戦、そのあと勝本浦に防人と烽の配置、奈良時代は駅家の配置、豊臣秀吉朝鮮出兵の際は7年間にわたる兵站基地、江戸時代は朝鮮国王の外交使節「朝鮮通信使」が19回にわたり寄泊、そして網漁による鯨組が栄え勝本浦は大変貌を遂げた。
●ヤマト政権と朝鮮半島通交の海路
大和(奈良) ― 瀬戸内海 - 筑紫 ― 壱岐(勝本浦) - 対馬 ― 任那
●豊臣秀吉の朝鮮出兵の海路
名護屋城(本営は佐賀県) - 壱岐(勝本浦) - 対馬 - 釜山
●朝鮮通信使の海路
釜山 - 対馬 - 壱岐(勝本浦) - 藍島 ― 赤間関 - 瀬戸内海 - 大阪(陸路江戸へ)
勝本浦の町名と史跡等
西部:左から馬場先(駅家、池神社)、中折(波切不動、厳島神社)、正村(聖母宮、朝鮮使節迎接所、原田組荒神様)、川尻(押役所)、田間、鹿ノ下西、鹿ノ下仲(志賀神社、海産物問屋大久保本店跡)、鹿ノ下東(対馬屋敷、永取鯨組屋敷跡、供養塔)
中部:琴平(金毘羅神社)黒瀬西(河合曽良療養の屋敷跡と碑)、黒瀬仲(能満寺、河合曽良の墓)、上方(日月神社)、蔵谷、黒瀬東(朝市広場)、城山(武末城跡)
東部:田ノ中(池廼神社)、坂口(地蔵堂)、湯田(印鑰神社、地命寺)、新町(御茶屋屋敷、長四郎塚、弥勒堂、本浦城、龍神社)、町ノ先、築出(厄神社)、赤滝、塩谷(鯨組納屋場、田ノ浦神社、天社神社、熢と防人)
公民館区と氏神
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正村区(西部)
正村区は、馬場先から鹿ノ下東まで八町からなる。家々は、背後の小高い崖の下と海岸線に沿って並んでいる。むかし黒瀬に行くには、志賀山を乗り越えた。その地名は「乗り越し」という。
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本浦区(東部)
本浦区は、塩谷から田ノ中まで八町からなる。むかし本浦の範囲(写真)は、正村区の外(琴平)から御仮堂(湯田町)までで、黒瀬区や塩谷、赤滝、築出、新町、町ノ先は後の開拓でできた。
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黒瀬区(中部)
黒瀬区(写真手前)は、琴平から黒瀬東まで六町からなる。特徴はマチ的性格で、道路の両側に商店が軒を連ねている。朝市が立ち、博多・厳原の連絡船は、琴平町の桟橋で発着していた。
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田浦区(塩谷)
勝本港の右奥を塩谷浦という。昔は赤滝から先の200mほどを田ノ浦と呼んだ。江戸時代に鯨組の納屋場が開設され、鯨船の合計58艘、総勢1000人ほどが働いていた。
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聖母宮(正村区)
勝本浦は、むかし可須浦と本浦の2区に分かれ、可須浦の氏神が聖母宮であった。可須浦は大和政権と地方を結ぶ駅家が配置され、聖母宮は駅の津(港)の神とされた。
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印鑰神社(湯田町)
勝本浦は、むかし可須浦と本浦の2区に分かれ、本浦区の氏神が印鑰神社であった。北方の外寇に備える兵庫の印と鑰(カギ)を保管した社と言われている。