280号:肥前名護屋城と壱岐勝本城
近年は広報の重要性が増しているせいか、郵便ポストに様々なチラシが入る。その中に、一支国博物館が実施する「しまごと大学講座」の案内があり、24日の講座(文禄・慶長の役で豊臣秀吉の命を受けて造られた軍事拠点:名護屋城と兵站拠点:勝本城)に参加した。参考になったのは、勝本城は名護屋城と同じ造りがあること。①城道(本丸への通路が5つの角を持つ) ②蔵地(食料用の大貯蔵庫設置)。勝本城の大手筋入口には勝本小学校があるが、蔵地ではないかということ。勝本城は1592年から7年間にわたり、城番として秀長の家臣(本多因幡守)が500人の家来と共に駐屯した。その人達がどこに住み活動したかについて知りたかったが、資料がなく難しいのかもしれない。また、勝本浦には大名達が宿泊した屋敷があり、加藤清正達が滞在中に聖母宮の石垣、西門、南門を造営したことは知られている。が、宿泊した屋敷について知る人は少ない。二城は秀吉の死後に破却。今も昔も、軍事侵攻は評価が低く、関係事柄も扱いが難しくなる。写真は勝本城から写した勝本小学校、左奥に対馬の島影が見える。