勝本浦は、朝鮮半島と深いつながりのあった大和政権時代から海上航路の重要な港として多くの人々が逗留し交流した。古代・中世は神功皇后の三韓往来、4世紀後半は高句麗との交戦、663年は唐・新羅連合軍との交戦(白村江の戦い)。近世は文禄・慶長の役の兵站基地として、城番と家来500人が7年間駐屯した。
 江戸時代になると、外敵警備のため若宮島に遠見番所設置、海上警備と治安維持の押役所設置、朝鮮通信使の迎接所設置(往復路19回寄港、一行約450人)、案内役の対馬屋敷(一行約800人、約60人が常駐)が設置された。

 鯨組による捕鯨は、突組から網組の捕鯨に転換した貞享元(1684)年、田ノ浦に納屋場が造られ開始され、約200年間にわたって行われた。隆盛時の納屋場には、鯨船723人、納屋135人が働き、1年に大小数百隻の運搬船が出入りした。勝本浦には、土肥・永取・原田組があったが、なかでも土肥一族は鴻ノ池、三井とともに日本有数の富豪となるなど勝本浦は人の往来引きも切らず大繁栄をした。
 そして、明治・大正・昭和期は、漁獲行動(磯漁、網漁、釣漁)が技術、道具、機械の進歩とともに変貌し、漁業の町として発展した。

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令和6(2024)年8月8日、韓国からの「朝鮮通信使船」の復元船が261年の時を経て壱岐市勝本港に寄港しました。   

 

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414号:子供(遊び)心の復活

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子供の頃の思い出は、興味関心あることについて自由に自分で考え行動する遊びがあった気がする。山の中での城(巣)つくり、海に向かっての凧揚げ、二階に届く竹車などで、職業人生時にはなかったがが、老後は子供の頃に近い行動をするようになった気がする。旧ゲートボール場整備、荒れ果てた埋立地を整理しグランドゴルフ場に転換、その広場の一角に畑づくりなどと思いつきを実行した。そして12月に入り、馬場先の広場にほうきなどの作業用具が散らばっているのを見て、置き場があればよいと思いまず行ったのが、焼酎入れのケース集めで知り合いの酒屋から無料で頂いた。それを針金で結び柱にと置いていたが、それを見た仲間が翌日に運搬用の木材パレットを知り合いから集めた。それらを基にして色々と考え出来上がったのが、新物置き場(写真)で何とも言えない格好となった。相方に写真を見せると思わずに笑ったが、改めてみると本当に面白くて笑いたくなるような仕上がりです。追加作業は、これからも続く予定でとても楽しみです。

2024年12月04日

413号:外の景色

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雨・雨・雨、朝起きたときの天気で、いっぺんに寒くなった気がする。外の景色(写真)は、いつものように家周りの石垣、お稲荷様、聖母宮だが、季節の変化を表しているのが二本の柿の木で一度に葉を落としてしまった。昔の若い頃は、この光景に日和見の漁師がお稲荷様に参る姿、登校する生徒の姿、漁船のエンジン音などがあったが、今は様変わりしてしまった。海の様子はネットで検索できるが、時化続きに水温上昇などで漁に出る日が少なくなったこと。登校する生徒は、少子化の影響で目立たなくなったこと。現代の課題は、このことが表している。漁業の町勝本浦をどのようにして持続可能な姿にするか。少子化で生徒数が激減し、よき学びの環境とは言えない小学校教育をどうするかがある。が、どちらも今後のことについての声が聞こえてこない。グランドゴルフなど、元気な高齢者の気になることはこのことです。天候不順のために3か月ほど漁に出ていないとの高齢漁師の声は、米のトランプニュースより切実な課題なのです。

2024年11月27日
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