鯨組について(江戸時代)

納屋場セミクジラ切開図(壱岐名勝図誌)

設備イメージ

勝本浦は、1680(延宝8)年、和歌山県太地浦で網組の漁法を学んだ深沢義太夫が、宝永年間(1704~1711年)、勝本港田の浦に納屋場を開設した。そして、網による捕鯨(鯨組)により捕獲頭数が飛躍的に増加するとともに、大規模な納屋場へと拡大していった。
正徳(1711~1715年)、享保(1716~1735年)になると、勝本浦の土肥市兵衛、土肥甚右ヱ門などが鯨組船団を組織した。彼らはクジラ肉を塩漬けにして京阪方面へ出荷して利益を得る一方、藩主松浦候に上納金を納めることによって、捕鯨の特権を保証されていた。また、浦には浦請銀を納めて浦経済を潤した。また、鯨組関係者の住居確保や通行の利便を求めて湾内の各所で開拓や埋立て(正村、黒瀬、新町)が行われた。
土肥市兵衛(土肥組の四代目)は、1767(明和4)年、本浦に三か年の歳月を費やして大邸宅を構えたが、その規模があまりにも大きいので「阿呆普請」と言われた。その大石塀(高さ7.8m、長さ約90mほど)が残っている。捕鯨業は、幕末から明治初期にかけて急速に衰退した。正徳年間から明治初年までとすれば、約150年余のことであった。

納屋場がおかれた田ノ浦の図と写真

田ノ浦の納屋場は、大村の深沢組、生月の益富組、勝本の土肥組、原田組、永取組などが使用。西日本で指折りの規模で、臨時雇いも入れると約千人の人々が納屋場及び鯨船で働き盛況を極めた。建物の種類:中央に位置した東納屋場、西納屋場とその前の鯨引き上げ場(ろくろ場)を合わせると、竪:112.716m 横:41.646m。その西横に勘定納屋と小納屋、東横に肉、骨、油身、臓腑を解体作業する納屋、大工納屋、鍛冶納屋、桶屋納屋、船小屋などがおかれた。鯨船:勢子舟(羽刺の乗る舟)24艘、双海舟(網を積んだ舟)12艘、双海付舟(双海舟が網を張るときに手伝う舟)12艘、持双舟(鯨を運ぶ舟)8艘、納屋舟2艘、合計58艘。

 

土肥組の御茶屋屋敷(新町)、お茶屋屋敷で運動会、原田組の荒神社(正村)、永鳥組の供養塔(鹿の下東)

勝本浦には、土肥組、原田組、永取組の3組があった。上の写真は、日本の鯨王といわれ、鴻池家、三井家と共に三大富豪とも言われた土肥組の四代目市兵衛が、明和4年(1767年)、約3年の歳月をかけ御茶屋屋敷という大邸宅跡である。本館の棟木に唐破風を組み、表座敷・大玄関・中門及び大門を設け、大門の左右に番屋あり。また、屋根には柿葺を用い、室内の彫刻金銀をちりばめ華麗を極むとある。屋敷址に残る石塀の上には、瓦葺きの土塀がのせられている。高さ7.08メートル、長さ90メートルにわたり、完成までに6年を費やしたと伝えられている。土塀部の大部分を失っているが、土肥家の富と力を示し壱岐の捕鯨業隆盛を象徴する貴重な建造物である。ここは後に町民の広場として、また石塀は「アホウベイ」の愛称で親しまれた。原田組の屋敷は、朝鮮使節迎接所の跡地(正村町)に、永取組の屋敷は、対馬屋敷の横(鹿ノ下東町)に建てられた。