壱岐の風土 (上の写真は壱岐島の土台となっている勝本浦天が原の勝本層の写真である)

中新世(約23300万年前から530万年前まで)
 勝本層:壱岐の島は海底であった。この間にまわりの大陸から小石や土砂が流れ込み、4000万年前から2500万年前にわたって海の底に約1000メートルもの厚さに海底堆積層ができた。その後、地殻変動で海底が持ち上げられ陸地となり、壱岐島の土台と言われる勝本層となった。この層は、勝本港周辺と、名鳥島、若宮島、辰の島、和合浜、谷江川下流などに分布している。そして、1500万年前頃になると、火山活動が活発になり溶岩や火山噴出物が噴出して壱岐島の南側半分が落ち込んだ(約300-700m)。その上に、壱岐層群(若松累層・長者原珪藻土層、久喜累層、物部累層、初瀬累層)が堆積した。長者原層からは、魚類や食物の化石が発掘されている。

鮮新世(約530万年前から180万年前まで)
 芦辺層群:500万年前ごろまでに、壱岐島全域はアルカリかんらん石玄武岩累で覆われた。勝本町湯ノ本付近の堆積物と玄武岩溶岩類をまとめて「湯ノ本累層」と称し、芦辺町八幡付近の二層の堆積層と三層以上の玄武岩類をまとめて「八幡累層」と称している。湯ノ本層からは鮮新世中期のステゴドンの化石が発見されている。

更新世(約180万年前から1万年前まで)
 郷ノ浦層群、岳ノ辻累層・津ノ上累層・鹿ノ辻累層・角上山累層・男岳累層・女岳累層など:300万年前から数万年前まで、10回にもわたる大規模な火山活動があったことが分かっている。壱岐層の玄武岩溶岩類(下部玄武岩溶岩、粗粒玄武岩、中部玄武岩溶岩、上部玄武岩溶岩、石英玄武岩溶岩)ができた。氷河時代のことで、この活動の終わりごろに、島の最高峰である岳ノ辻が出来上がった。

現世(約1万年前から現代まで)
 沖積層。氷期以降、台地を刻む谷を埋めて堆積した、やわらかで水を含んだ粘土や泥炭など。1万年前ごろに氷期から間氷期に変わり、その後は現在とほぼ同じ気候が続いている。

壱岐の歴史

氷河期(3万3000年から1万8000年前)。対馬海峡と津軽海峡に氷の橋が形造られ日本海が湖になったとされている。
最終氷河期(1万2000年前から1万1000年前頃)が終わり、地球は急速に気温が上がり、海水面が上昇して日本は孤島となった。


●孤島となった1万2000年前ごろから日本に住み着いた人の集団が縄文人。人が日本の歴史にかかわりを持ち始めるのは、縄文から弥生時代(紀元前4世紀から紀元後3世紀まで)以来といわれる。この時に日本に住んだ人々、壱岐の島に住んだ人々が同一の自然風土、くりかえす四季の風物、森林と石清水の恵みの中で、共通の文化(縄文・弥生文化)を形作ってきたと思われる。
●壱岐の縄文遺跡は、郷ノ浦町が9、勝本町が9、芦辺町が5、石田町が2で、計25か所が分かっている。弥生遺跡は、100か所近くが分かっている。この時代は、狩猟、漁撈、水田耕作と発展するとともに、ムラやクニがつくられた。そして、倭国では2世紀の終わりごろに大乱が起き、一人の女王(卑弥呼)を立て、その下に統一国家(ヤマト政権)となったとされている。


●3世紀頃から7世紀にわたる約400年間を古墳時代とされている。壱岐の各地にも集落が生まれ、集落はムラに成長し、ムラとムラは連合して、国を形成するようになった。その国が、「魏志倭人伝」にいう「一支国」である。いわゆる豪族で、大陸の先進文化を吸収しながら、壱岐の島を根拠地として、南へ北へと活動をしていたのである。そして、自分の権威を示すために巨大な墓(古墳)づくりを始めた。江戸時代の記録には、壱岐の古墳は338基と書きとめているが、現在は半壊したものまで含めて256基が残っている。現在の島人よりも、はるかに国際人だったのである。