防人(さきもり)と烽(とぶひ)

大和朝廷時代、朝鮮半島では唐と新羅が結んで660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。倭は唐・新羅に対し抵抗を示す旧百済勢力による百済復興を支援するため大軍を派遣したが663年に白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗。その後、新羅が朝鮮半島の支配権を確立し、676年に半島を統一した。この敗戦を受けて大和政権では防衛政策が進められ、664年に対馬・壱岐・筑紫に防人と烽がおかれた。また、百済からの亡命貴族の指導の下に、九州の要地を守る水城や大野城が築かれ、対馬から大和にかけて古代朝鮮式山城が築かれた。防人と烽は、勝本浦では見目(ミルメ)浦と丘陵地帯にある烽山(ヒヤマ)といわれている。見目浦周辺は縄文・弥生人が住んだ地で周辺に畑や石の堤防などもあり、ミルメにも美しい景色が広がる。現在はイルカパークがあるが駐車場及び施設は埋め立て地で、以前は干潟で貝ほりに適した場所だった。駐車場の横の通路を入ると、山側に船着き場までの通路がある。そこを進むとミルメにも美しい浜に着く。

 

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防人(さきもり):天ヶ原奥串山半島の見目浦

防人とは、国防の前線に立つ駐屯兵のこと。防人には東国の農民が当てられ3年の任期で壱岐や対馬の守りについたのです。選ばれた防人たちは、国司に連れられ難波津(大阪)に集合し、船に乗り九州の太宰府へ来たのです。そこで訓練を受け、筑紫・壱岐・対馬へと配備されたのですが、壱岐には150人ぐらいで見目には10人ほどといわれています。海岸の見張りをし、もし敵が攻めてきたらすぐに烽で知らせる用意をしたのです。         見目浦からは、貝殻捨て場、住居跡、石組みの炉跡やかまど、土師器、須恵器、砥石、骨製品、亀の甲羅を利用した亀卜が発見されており、6から7世紀の生産遺跡とされています。

防人の歌(万葉集) 「唐衣、すそに取りつき泣く子らを おきてぞ来ぬや 母なしにして」(母に死に分かれた子らを おいてきてしまった)            「忘らむと 野行き山行きわれ来れど わが父母はわすれせぬかも」(旅の月日をかさねても 父母のことが忘れられない)           「わが妻も 絵にかきとらむ暇もが 旅行く我は見つつしのはむ」(妻を絵にかきうつす暇あれば 妻をしのぶことができた)

 

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烽(とぶひ):塩谷町の山側

烽は火をあげて急を知らせる施設だった。従って、遠見のきくことが最優先だったので設けられる場所に制限が加わってくる。そこには「外敵が攻めてきた」というような、大事な要件を早く知らせるために、火をたいて煙を上げる設備があった。しかし、煙だけではどんな事件かわからない。そこで約束が決められたのです。たとえば、外国使節が来航した場合は、一つの烽火、賊が来たと分かった分かったときは二つの烽火、200隻以上の敵が押し寄せてきた場合は三つを放つというように。夜は、大きなタイマツを燃やし、詳しい内容はそれから船に乗って報告に行ったそうです。